交通の要衝地として発展

箱根町に人が住み始めたのは、約1万2,3千年前の先土器時代後期といわれ、7,8千年前の縄文時代早期頃には、宮城野付近の河岸段丘上に集落ができ、約2千年前の弥生時代中期になると、古芦ノ湖の仙石原部分が湿地化し、農耕民が住み始めたようです。
箱根山に公道が開かれるのは、鎌倉時代、湯本から三島に抜ける湯坂道が最初で、江戸時代の初期には、湯本から畑宿を経て箱根に通ずる東海道が出来ます。後世に「天下の険」といわれる箱根山の往来は困難を極めたもので、徳川幕府は箱根を自然の要塞とみて芦ノ湖畔に関所を設けます。以後、箱根は交通の要衝として、関所を中心に宿場町へと発展することになります。

一夜湯治から国際観光地へ

箱根八里と箱根関所は、旅人を随分悩ませたようですが、箱根七湯といわれた豊かな温泉は魅力でした。江戸時代後期になって、温泉場での宿泊が「一夜湯治」の形で旅人にも定着するようになると、箱根は伊勢講・富士講など、庶民の旅で大変な賑わいを見せるようになりました。
明治時代になって関所が廃止され、現在の国道1号線の原形となる幹線道路が開通します。交通が便利になるに伴って、箱根は湯治場としてだけではなく、避暑地としても有名になり、さらには外国人にも愛され、別荘も建てられるようになります。大正時代に入ると、箱根登山鉄道が湯本から強羅まで開通します。
 

箱根町の誕生と発展

1889年(明治22年)に町村制が施行された際、箱根は、湯本村、温泉村、宮城野村、仙石原村、箱根駅、元箱根村、芦之湯村の1駅6村でした。その後、町制の施行や町村合併によって、湯本町、温泉村、箱根町、宮城野村、仙石原村の5か町村となり、この5か町村が1956年(昭和31年)9月に合併して現在の箱根町が誕生しました。
一方、1950年(昭和25年)に小田急線が小田原~箱根湯本間に乗り入れ、箱根は東京都心と直接結ばれることになりました。そして、昭和30年代の後半から40年代の日本経済の高度成長を追い風に、観光開発が急速に進められていきます。
1962年(昭和37年)に箱根新道、1964年(昭和39年)には乙女バイパスがそれぞれ開通し、モータリゼーションの進展に対応した新しい交通網が整備されます。また、1965年(昭和40年)に箱根関所の復元と資料館の整備、1972年(昭和47年)に大涌谷自然科学館・旧街道資料館の開設など、観光施設も整備されていきます。
1973年(昭和48年)の第1次オイルショックを契機に、日本は安定成長期に入り、1976年(昭和51年)に箱根湿生花園、1986年(昭和61年)に箱根芦之湯フラワーセンター、さらにバブル経済崩壊後の1991年(平成3年)には森のふれあい館など、本町の地域特性を生かした新しい施設が開設されました。箱根の持つ魅力は多彩さを増し、年間2,000万人もの観光客が国内外から訪れる、日本の代表的な国際観光地として発展しています。

 

自然との共生のもと進むまちづくり

寮や保養所、分譲別荘なども次々と建てられ、多様な魅力を持つ国際観光地として発展するなか、本町では自然の保護と開発との調和を常に大切に考えてまちづくりを進めています。1971年(昭和46年)に町全域を都市計画区域に指定して乱開発の防止に努める一方、1975年(昭和50年)には緑の減税制度や緑の銀行制度を創設、平成に入ると箱根町資源保全基金(箱根トラスト)を設置するなど、積極的に自然の保全を図っています。
観光地の宿命ともいえるごみ問題にも長く取り組んできており、1970年(昭和45年)に「観光美化推進都市」宣言を行い、美化憲章を制定しています。増え続けるごみ排出量に対応するため、1993年(平成5年)には1日135トンのごみ焼却処理施設機能と1日30トンの粗大ごみ処理施設機能をもつ美化センターが開設しました。
また、公共下水道については、1985年(昭和60年)に芦ノ湖周辺公共下水道が、1989年(平成元年)には第1号公共下水道が供用開始となりました。
以下、昭和31年以降の町の主な出来事を紹介します。

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